6月6日は「かえるの日」、蛙の鳴き声「けろ(6)けろ(6)」の語呂合せからだそうです。
我が家の裏の田んぼも水入れしているので、直にカエルの大合唱でイライラさせられそうです。
とくに子供の頃はエアコンも無く、窓が開けっぱなしで、カエルが憎くなるほどうるさかったです。
そんな今日、新聞で「第三十二回堀川まつり」がやっていることを知り、展示されているという獅子頭を飾った高さ十四メートルの「獅子山」を観にウォーキングしてきました。
公園内に展示してあるはずの「獅子山」ですが、昨日までだったのか展示されていませんでした。
夕方以降にいろいろと行事がありそうですが、私は写真だけ撮って帰路につきました。
堀川まつりの歴史
まきわら船の起源は“津島天王祭”。さらに歴史をたどると“京都祇園祭”がルーツだと言われています。 堀川沿いには洲崎の天王祭、熱田の天王祭が伝わりました。
まずは上流部、洲崎の天王祭のまきわら船。
尾張徳川家6代藩主宗春のときに最盛期を迎え江戸の2大天王祭りの1つになりましたが、その後、橋の数の増加と明治になり尾張藩千賀水軍の衰 退により船が動かなくなり明治21年に中止になりました。
そして下流部の熱田の天王祭は大山。
平安中期(1004)頃熱田に疫病が流行し、人々は旗鉾をもって洲崎神社、南新宮天王社に疫神を奉ったのが熱田の南新宮天王祭の始りです。 熱田の天王祭は室町中期(1469年)頃祇園祭の影響もあり傘鉾型の山車が参加し、祇園まつりと同じの山車祭りへと発展ました。
<洲崎天王祭のまきわら船>
その後熱田の山車は序々に高くなり江戸中期(1754頃にはすでに田中山、大瀬子山などは20m程の高さの日本一の大山になっていました。 祭例日は祇園祭(7月中旬~下旬)と同時期に行なわれており、大山や車楽が町中を引廻しされていました。
熱田 南新宮天王祭は明治になり、市内に電線が架けられるようになり、身動きがとれなくなってきました。
また、南新宮社も明治4年以降に熱田神宮の内にまとめられ、祭例日も尚武祭(6月21日)に統一されました。
明治40年頃天王祭の継続が難しくなったため、熱田浜の人々は大山に替わるものとして、同じ祭神のまきわら船を津島に勉強に行きました。
そして明治43年(1910) 尚武祭のまきわら船を完成させたのです。
戦争での中断をはさみ、戦後祭例日も熱田まつり(6月5日)に変更になり続けられました。
昭和50年(1975)資金及諸事情のためまきわら船は中止されました。
現在は熱田神宮内で熱田まつりの献灯まきわらとして続けられています。
平成2年(1990)市民グル-プにより、ミニサイズではありますが、堀川まつり(熱田天王祭)のまきわら船として復活され、6月の第1土 曜日に堀川流域で行われました。
平成9年からまきわら船は、洲崎神社まで遡るようになり、洲崎と熱田をつなぐ役割を担っています。
NPO法人 堀川まちネット
2 件のコメント:
tsunさんチ裏の田んぼも揚水の問題であと数年でおしまいだそうです。
ーとなると寂しいでしょ?
どのみち、代替わりになれば無くなるものだと考えていました。
でも確かに、あれはあれで風物詩的なものになっており、寂しくなると思います。
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